何故かというと、「XXの歩き方」も写真とか歴史とかエピソードとかあっていいのだけれど以外に旅行者がその時に必要とする情報量が少ない事と地図がいい加減だということ。
洋書のガイドブックだと写真だとかはほとんどないけれど宿泊情報が多い事、そのコメントが簡潔で分かりやすい事、地図が分かりやすく詳しい事、なんかほんとに旅行する人の立場に立っているような気がする。
「XXの歩き方」は売れる本を意識に入れているので綺麗だしなんか楽しそうという気がしてきて思わず買ってしまう様な本だから日本人旅行者のバイブルみたいになっている。洋書のガイドブックは見た目がはっきり言ってつまらなそうで写真もないし中身を見ても箇条書きのデータベースみたいで目がちかちかしてくるけど実際旅先に行き必要になるのはそこへのアクセス情報、宿泊先(安宿)の情報、地図の充実度が重要になるはずですよね?みなさん。
でも「XXの歩き方」がんばって下さいね。これからに期待していますから。
1996年2月、日本からグァテマラに向かう途中、マイアミに一泊した。空港ホテルのテレビではマイアミ沖でキューバ軍によってアメリカ民間機が撃墜されたと大騒ぎしていた。なにやら戦争でも始まらんばかりの様子だ。でも私の心は約10年ぶりの本格的なぶらぶら旅行へ向かう自分を歓迎してくれているバックグラウンドミュージックぐらいにしか聞こえなかった。アメリカはただの通過点にしか過ぎなかったからだ。
正直言ってアメリカはどうでもいい。生理的に自分とは違う世界だから。(アメリカ好きの方すいませんね) あっ、でも私が使った航空会社はアメリカン航空だった。アメリカン航空はとってもグッドです。念のため、、、、。
翌朝とっととグァテマラ行きの便に乗り込んだ。
思っていたとおりグァテマラは私の心の琴線にふれる国だった。陸路で抜けていったベリーズは洗濯?にもってこいの国だった。さらに陸路で抜けていったメキシコはなにかにつけての中途半端がちょっと私をがっかりさせたが全然別の意味でグァナファトはすてきな場所だった。どこが?とお思いの方はガイドブック(地球の……方?)を見てね。でも日本食が食べられるレストランはもうありません念のため。
ただ最後まで読まないと真意は分からないかも。メキシコでは大逆転が、、、、、それが旅。
グァテマラシティ到着後、オンボロタクシーの運ちゃんと交渉の末、US$20で空港から約1時間のアンティグアへ向かう。アンティグアに着いてペルーのクスコとそっくりな町だとびっくりした。違うのは高度が1000Mぐらい低くて高山病にならない事と近くに富士山のような火山がある事だ。とても美しい町並みと周辺の自然がマッチしていてちょっとのんびり出来そうだなと旅行者の溜まり場にもなっているのがよく分かる。
ここでは3件の安宿を泊まり歩いた。1泊30から50ケッツァルで安宿はある。だいたい¥500から¥800だ。今貧乏旅行をするなら中米は穴場です。
この国はバス網がよく発達しているが車体はぼろぼろ、通常通路を挟んで2人づつ座るシートに3人づつ座るのが当たり前になっている。アンティグア郊外の村にこのぼろバスで何度か行ってみた。にわとりを大きなお腹に抱えたインディヘナのおばちゃんやおじちゃん達でごった返している。何日か経ってからアンティグアからバスで約3時間のところにあるパナハチェルに移動した。ここはかつてヒッピー達の溜まり場だったそうだが今も強引な西洋風レストランや飲み屋、土産屋が小さな村にひしめいている。
このパナハチェルはアティトラン湖のほとりにあり、この湖沿いに点在する村への中継地点にもなっている。これらの村々ではそれぞれ独特の民族衣装
(ウイプル)をまとった人々の姿を見ることができる。船を使うのもいいがゆっくり歩いて1つ1つ村々を巡るとそれぞれ違いが分かってとても楽しい。独自の文化を守って暮らしている人々を見たら、すべてをかなぐり捨てて消費文明に突っ走っている私たちの国が本当に正しいのかなとまたいつも旅をするたびに思う病気が頭にもたげてきた。良いとか悪いとかの問題ではなく私たちが当たり前だと思っている生活パターンはいくつもの選択肢の中で選んだ単なる1つの道だっただけだと思う。もちろん今全世界はその1つの道を目指し突っ走っているんだけど....。
アティトラン湖を静かに見下ろすサンペドロ山に登ってみた。旅の道連れはここで偶然出会った針の学校に通っている日本人。しかし景色も良かったけれど下山してから一緒に飲んだビールはうまかったなあ〜。後で針も打ってもらって1石2鳥の気分だ。
パナハチェルから3時間ほどバスに揺られると日曜市で有名なチチカステナンゴまで行くことが出来る。大きい市(イチ)なことは確かだけれどそれ以上のものでもないかなというのが正直な感想だ。それよりも町から20〜30分ぐらい南に歩いた小高い丘にパスカルアバハという古代マヤの神が祭られている場所があるがこちらのほうが印象深かった。
行ってみるとまさにシャーマンらしき老婆が上半身半裸の中年男性に宗教儀式を執り行っているところだった。その中年男性に生卵をぶつけたり、呪文を唱えていたかと思うとやには水らしきものを口に含みその男めがけて霧吹き状に吹きかけた。その姿は真剣そのもので写真を撮ったりすることもためらわれる雰囲気があった。3時間ほどその場所にいた。その間見に来た観光客はドイツ人の貧乏旅行者2人だけだった。
すぐパナハチェルまでトンボ帰りしてさらにアンティグアヘ。そして一気に大西洋岸の港町プエルトバリオスまで抜けていった。グァテマラシティからバスで約6時間、途中道路工事のため1時間も足止めを食ってしまったが暑くてたまらない。何で昼間っから道路工事でそれも1時間も、なおかつ幹線道路で身動きできない状態にされなければならないんだと日本的発想が頭にもたげてきたがおっとここはグァテマラだったと反省反省。
プエルトバリオスは黒人が多い。ここはジャマイカも物理的に近い大西洋岸だった。でも黒人はグァテマラではマイノリティなのでとてもおとなしくて優しい気がする。
さて目指すはリビングストンだ。やはり大西洋岸に面した小さな町。ただここへは陸路で行くことはなかなか難しい。目指すには船かボートで行くしかない陸の孤島だ。朝10:30のプエルトバリオス発リビングストン行きの船に乗り込む。乗客は黒人かドイツ人、スイス人、私を含む貧乏旅行者だけだ。1〜2時間船に揺られるとそこはジャマイカの世界だった。
桟橋で客引き、物売りに近づいてくるのは黒人ばっかり、耳を澄ませばレゲエの調べ!そこでジャマイカのラスタマンばりのおじさんがいきなり握手を求めてくる。その時に一言、「ウエルカムトゥーアフリカ、ユースモークガンチャ?」こんなところまでジャマイカみたいだ。
リビングストンは小さい町でとても落ち着ける、おすすめの町だ。ここでは海に面した安宿に泊まった。ベランダから眺める景色が気持ちいい。
「うわー陽が沈んでいく!何て綺麗なんだろう!」
ここリビングストンで散歩に出かけてたまたま目にした日の入りがこんなに美しく、感動するものとは予想だにしなかった。海の向こうに沈む太陽の手前で漁師を乗せた手こぎボートがシルエットとなってこちらに近づいてくる。何だか分からないがどっかに置き忘れていた子供のころの自分に戻った気がした。
さて次はリオデュルセをボートで抜けていよいよマヤの遺跡ティカールだ。その時はまさかあんなことが起こるとは思ってもいなかった。
スイス人、ドイツ人、フランス人、そして私日本人を乗せた混成部隊のボートは濃密なジャングルに囲まれた川の静寂をけたたましいエンジン音と水しぶきでかき消した。それに併せて何十羽もの水鳥達が真っ白い羽を大きく羽ばたかせながら飛び去っていく。ふと太古の森に迷い込んでしまったような錯覚にとらわれてしまった。
フロンテイラスというフローレスへの幹線道路がある町に着くまでに温泉がわき出る場所、マナティ保護区、ジャングルトレッキングなど立派なクルーズツアー?を消化した。
ここからフローレス(ティカール遺跡への拠点の町)行きのバスをつかまえる事になるのだがグァテマラシティから1日に3〜4便しかないバスはフロンテイラスに来るまで6〜7時間、当然超満員になっている。運が良ければ座れるかもしれないが立ち席になるのを覚悟の上でないとこの方法はやめた方がいい。ここからフローレスまでは8時間かかるとも12時間かかるとも言えないのだ。おまけに道はでこぼこのがたがた、だいたい目的地に到着する頃にはどのような状態になっているか想像に難くない。とっても楽しいバス旅行が期待できる。
実を言うと予想以上に楽しいバスの旅をしてしまった。うだるような暑さの中1時間ほど道端でドイツ人と一緒にバスを待っていると一体どうやればこんなにポンコツになれるのかと不思議に思ってしまうほどのバスがやってきた。人の話によればもう少しましなバスが来るはずだった。エンジンも地獄の底からうなり声を出しているかのごとくで先が思いやられる。
偶然にも人の入れ替えで1時間ほどで座席をキープする事は出来たが、果たして暗闇の山中で案の定エンジンがヒートし車内は煙で充満した。と思う間もなくぴかぴかと稲光が始まり5分もしない内に近所にどかどか雷が落ち始めたではないか。そして嵐。それも30何年?の今までに経験したことがないぐらい強烈なもので一瞬何が起こったのか分からなかった。バスが吹き飛ばされるのではないかとさえ思えた。当然車内の明かりも消え横殴りの雨がただでさえ風通しのいい窓を突き破って全員びしょぬれ、やれやれと通路に避難したのが運の尽きだった。今日はだめだとあきらめかけて再び自分の席に着こうとしたらシートがない。座席を誰かに取られたというのではなく座席そのものがなくなっていた。残るはフレームの骨組みだけだった。果たしてその座席はバスの下にあった。あったというよりもドライバーがエンジンを直すためにバスの下に潜り込む背もたれとして使われていたのだ。なんと彼はこの暗闇と雷と嵐の中、バスの下で修理するべく孤軍奮闘していたのだ。それが分かった瞬間今までの恐怖心が吹っ飛んだ。とにかく彼のプロ意識に敬意を表したく思った。
2時間ほどであろうか、もう運を天に任せる心境でいたら、エンジンがう ご い た。泥だらけのドライバーに私は自分のタオルを渡した。泥だらけのシートも無事戻ってきた。嵐も通り過ぎ無事フローレス(正式にはサンタエレナ)に到着したのは朝方の4時、フロンテーラスを出てから15時間が経っていた。
ティカール遺跡は雨が降っていた。そして1年中暑い土地のはずがあの嵐の夜以来めっきり冷え込んだ。あの嵐は寒波が入り込んで大気がものすごく不安定になったのがどうも原因だったようだ。
ティカール遺跡は現在のところマヤ最大の遺跡と言われている。その名に恥じず?このティカール遺跡では間違いなくみな迷子になる。巨大すぎるのも原因の一つだがおそらくはジャングルの中に遺跡がそのまま埋もれたままになっているのと道が非常に複雑になっていて獣道に騙されるからだろうと思う。
ただでさえあまり観光客が多いとは言えないこの遺跡はこの雨のせいもあってちょっと奥に入れば遺跡と自分一人との対峙となる。
静寂の中である広場に出た。その場所でほかでは決して感じなかった何か特別な雰囲気を感じた。イマジネーションが自分を過去へ遡らせた。その場所で私はかつてのマヤの民と出会った。
『苔むして泥に埋もれた遺跡群、あなたがたは何故、何世紀もの間そうして沈黙を続けているのですか?何故そのようなかつての生のあかしを私たちにかいま見せるのですか?あなたはそれを望んでいましたか?』
私はその場所が気になり地図で自分の位置を探した。そこには「ムンドペルジード」日本語にすれば「失われた世界」と書かれてあった。
何故そこが失われた世界と呼ばれるようになったのか私には知る由もない。ただそこに行きさえすれば誰もが何となく理解できることだと思う。
第4号神殿はティカール遺跡で1番背が高い神殿だ。ここは一番上まで登る事が出来て景色が最高だが十分気をつけた方がいい。足腰が弱い人はまずやめた方がいい。あと高所恐怖症の人もやめた方がいい。てっぺんには何が起こっても良いように?何故か警備の人が1人常駐している。特に雨上がりなんかはとっても楽しくなる。私もほんのちょ〜っとだけ足を滑らせたりなんかした。
ティカール遺跡の良いところは遺跡が生きている事だ。加工されていないありのままの姿で今も静かにジャングルに埋もれている。そして人を古(いにしえ)の世界に誘い込む。
ティカール内にあるジャングルロッジを後にして一路ベリーズ国境を目指した。2台バスを乗り継いですいすいと国境まで来てしまった。私は陸路の国境越えがとても好きだ。なんか移動してるという実感がこみ上げてくるからだ。今まで一体どのくらいこのように国境越えをしただろうかとふと考えた。
歩いて国境越えをしたこと、バスで楽に通過しようとしたら税関で疑われて延々3時間近くも尋問されたこと、あのときは他の乗客に迷惑をかけたなあ。ヒッチハイクでまわっていたときのこと、国境を越えたまでは良かったが10匹ほどの野犬に追いかけられたときのこと、パトカーに何故か乗せられて国境まで連れてきてもらった?時の事など、みなすべて懐かしいものだ。
さあ、ここからはベリーズ、英語圏に入るぞ。
ベリーズはガリフナと呼ばれるカリブ系黒人をはじめとする黒人と先住民インディへナ、中国人達で構成されているがもう圧倒的に黒人たちの国だ。グァテマラとは対照的にインディへナ系の人々はあまり目立たない。
グァテマラとの国境からベリーズシティ行きのバスがあるが途中すぐに降りてシュウナントニッチと呼ばれるマヤ遺跡に立ち寄った。
川を「渡し」で越えるとだらだらとした何だかだらしない坂が続いている。そこへちょうどジープが通りかかったのでヒッチハイクの合図をしたらOKの返事。そうここはイギリスの植民地だったから食べ物の期待は最初からあきらめていたがヒッチハイク文化が引き継がれているのは良きことかなと感心した。
シュウナントニッチの遺跡はきれいに整備されているし、今も発掘が進んでいる。でもティカール遺跡を見た後では色あせて見える。そういえばそこにあったなあぐらいの印象しか残らない。専門家じゃない人間なんてまあそんなもんでしょう。いい加減なもんだ。
本当はここベリーズにはカラコルという、ティカールに匹敵するか、もしかしたらそれ以上の規模と推測されるマヤ遺跡が眠っている。一人で行くには車をチャーターして行かなければとてもいけない。実は頑張って行こうかどうか迷ったがティカールを見てマヤシリーズは満足していたので今回はスキップする事にした。
ということでベリーズシティにあっという間に着いてしまった。元々ベリーズという国はとても小さな国だ。一寝入りしている内にメキシコに着いてしまったら大変だ。それでは何のために観光ビザを取ってまでして来たのか分かったものではない。
ベリーズシティは怪しい雰囲気があった。着いた日がちょうど祭日ということもこともあって商店、レストランなど店という店が閉まっていて初めはゴーストタウンなのかと勘違いしてしまったぐらいだ。町の中心近くでは目がちょっといってしまっている若者達が何をするでもなくふらふらしている。翌日、商店が開いてからはそれほど違和感がなかったが最初の印象はやはりぬぐい去れない。
あまり落ち着くところでもないのですぐにキーカーカーという小さな島にモーターボートで行ってみた。ここキーカーカーは東京のベリーズ領事館の人に是非訪れてみてくださいと薦められたリゾートだ。
キーカーカーはとても小さな島だ。この島には普通の車が走っていない。この島唯一の車はゴルフカートだ。島のメインストリートでチョロチョロ走ってる。
私はこの島の南端にあるコテージでのんびり過ごした。とにかく何にもないところなので日本から持ってきた小説とこちらのビールが心にしみる。
この島のビーチは北の先端にある?と言われている。行ってみたら板敷きの桟橋が何と30メートルぐらいあって、果たしてそこには子持ちシシャモのように横たわる観光客の姿があった。あれ、ここには砂浜も無い。つまりこの島でビーチリゾートを堪能しようなんて考えてはいけないのです。
ということでシュノーケリングをする事にした。ところがやはり変な気候の関係かシュノーケリングをしているとあのジョーズの親戚達がうようよ泳いでいるではないか。2メートルぐらいはあろうかというほどの本当に歯が丈夫そうな鮫が目の前を通り過ぎて行く。別に食いつかれる事は無かったがこういう状況は別に問題のない普通の状況なのでしょうか?どなたか詳しい方教えてください。
それでもキーカーカーはとても印象深い。ここの良さは、とにかく何にもないところ。太陽と海と海の男とそしてちょっとの退屈、キーカーカーは自分と向き合う時間をたっぷりと旅人に与えてくれる。
ここにいたとき書かれた日記を開いてみた。
『人は非日常を求めて旅に出る。その究極の姿を探しに地の果てまでも今では気軽に行けてしまう。でもどんなに地の果てまで行こうとも決して変わらないものがあることに、ある日人は気付きます。それはどこへ行こうとも何をしようとどこまでも引きずり続ける自分という人間にです。
外に出ると自分が変われるなんてただ背伸びをしているだけ、旅の恥は掻き捨てなんて言葉も自分という人間の一部が一時的に解放されただけ、旅に出るとその人の本来の姿がよく分かってくる。
いろいろな風景いろんな人々を見るために旅に出るとか人は言うけれど、でも本当はみな自分を探しに旅に出るのです。そしていろいろな風景、人々を見るうちにある想いがよぎるようになります。
違う人、違う風景、違う考え、違う世界、みんな違うからこそ同じなんだ。』
ベリーズシティーに戻ってからやはりこの町に何の魅力を感じなくてすぐメキシコのユカタンを目指す決意をした。ベリーズシティーからバスで5時間もあればメキシコとの国境の町コロザルに着いてしまう。メキシコ国境の町はチェトゥマルというがユカタンへの中継地点という色彩ばかりが濃い。ここからカンクンへ抜けて行くか、メリダへ抜けていくか選ばなければならないが私は一人旅。迷わずメリダ行きのバスに乗り込んだ。
ところでメキシコのバスはすこぶる良い。日本の観光バスに乗っているようなもんだ。道も綺麗に舗装されてとても快適だ。かつて旅行者がメキシコの悪路に苦労していた時代があった。今の旅行者にとってそんなことは知る由もないだろう。
メリダ滞在中有名なチチェンイツァのマヤ遺跡へ足をのばした。メリダから2等バスで約2時間、チチェンイツァは暑い。そしてものすごい数の観光客。そのほとんどがカンクンから来たのだろう。今回の旅行で初めての観光地らしい観光地。日本からの人もかなり多い。
この遺跡で残念だったのは遺跡の周りが綺麗に整地されていたこと。ティカールのようにイマジネーションがかき立てられることはここではなかった。しかしこれだけの観光客を受け入れるためには仕方のないことかもしれない、金の成る木なのだから。
チチェンイツァからメリダに戻る2等バスは現地の人とわずかな観光客を乗せてユカタンの原野を走っていった。私は後部車輪の上の座席に座っていたのだが突然下からパーンという大音響とともにバスのスピードがみるみる落ちてきた。パンクだ。
実はこのときだけでなくメキシコで3回同じようなパンクにあっている。ひどいときは高速道路上でパンクの後、タイヤに止めてあるボルトが破損して動けなくなり乗客全員後から来るバスを手当たり次第にヒッチハイクするなんて芸当をしなければいけない目にもあい、目的地に着くまでに4回もバスを乗り継いで疲れまくった記憶がある。
メキシコはペソの下落のため物価がとても安い。ベリーズ、グァテマラよりも安い。一見、道がきちんと整備され、良い車が走り、少なからずアメリカの影響を受けて発展してきたこの国はとても豊かに見えたが、実はグァテマラ同様、貧富の差など様々な問題を内包していることに気付くだろう。パンク一つにもその陰を見たような気がした。
さてユカタンの原野を走駆するバスのパンクは意外なプレゼントを私たちにもたらした。
車の修理工場で1時間ほど費やした後、夕暮れの原野をバスはひた走った。隣に座っているフランス人女性旅行者の顔が夕焼けで赤く赤く燃えるように見えた。おそらく私も同じように見えたことだろう。進行方向斜め前、原野ににゆっくりゆっくり沈んでいく太陽、本来毎日起こる普通の出来事がこの時はあたかも壮大な物語の一部であるかのような気がした。もしかしたらこの瞬間を体験したいがために自分はこの地に来たのではないかとこの時思った。
メリダからバスでヴィジャエルモッサを乗り継ぎメキシコ中央高原のオアハカを訪れた。オアハカに至る途中の景色はよく映画などで見かけるようなサボテン一色に染まっていた。
オアハカではちょうど自転車レースの大会が催されるらしく非常に賑わっていた。特にソカロ周辺は昼夜関係なく楽しい雰囲気だ。オアハカは先住民系のインディへナが多いところでもあるので道端の民芸品売りを冷やかすのも一興だ。でも何かグァテマラでも見たようなものが沢山あったなあ。
オアハカ周辺のモンテアルバンの遺跡やミトラの遺跡を見て回ったが遺跡には少々食傷気味だ。
私は先を急いだ。オアハカから一気にメキシコシティまでバスで疾走した。
パンクの話はもうしたので触れないが、私が先を急いでいたのには理由がある。日本出発直前に聞いた知人からのアドバイスが私をそうさせた。
「グァナファトはいいぞ。」
その一言だけが私を動かした。人が何か行動をする根拠なんて意外とこんなもんじゃないかなと思う。
グァナファトへ行くには一度メキシコシティに出なければならない。諸事情により飲まず食わずでメキシコシティに到着したのは夜も11時を過ぎていた。
ここで泊まったところは一応ちゃんとしたホテルと言えるところだった。ベッド、設備から3つ星ランクと呼ばれても南米ではおかしくないところだ。しかもその時の料金は円にすると¥800くらいだ。設備と料金のバランスで言えば今回の旅行でNO1にあげて良いと思う。このホテルのすぐ近くに夜中までやっているタコス屋がありそのとなりに珍しいチュロス屋がある。ちょっと離れるがメキシコシティ中を見下ろせる高いタワーも歩ける距離にある。これが最大のヒントという事にしておこう。
さてグァナファトだ。メキシコシティからバスでまともにダイレクトにこれれば5時間ほどで到着する。私は8時間ほどかかったが.......。ただし到着するバスターミナルは岩山がごつごつとした殺風景な場所だ。一瞬ここがグァナファト?と疑ってしまうが実はここからグァナファト市内へはさらにバスに乗らないと行けない。
そこは本当におとぎの国から飛び出てきたような場所だった。中世ヨーロッパのコロニアル世界だ。そして学生の街。自分が10年若かったら留学することを考えたかもしれない。メキシコへこれから行こうとしている人は騙されたと思って行ってみたらいい。そして夜の街をさまようことできっとその訳に気が付くことになるだろうから。
この街で多くの旅人と知り合った。ドイツ人、イギリス人、そして日本人。ドイツ人は5年前も一人旅の途中立ち寄り、今回は彼女にこの地を是非見せたくて2人で来たのだと言っていた。日本人はユナイテッド航空の世界一周チケットを使って香港、インド、イギリス、そしてメキシコと40日間でまわってあさって日本に帰るところだという。彼はメキシコは嫌いだと言っていた。理由を尋ねると言葉が通じないからだそうだ。そしてインドも嫌いだという。騙されることばかりでうるさいインド人にしつこくつきまとわれたからだそうだ。
私は心の中でそれは違う、それは飛行機の都合だけで何の脈絡もない4カ国をイージーに回りすぎ心が食あたりを起こしているからだと言ってやりたかったがやめといた。いろいろな世界を一度に回るには移動はやはり地続きの方がいい。心の準備もなく飛行機で簡単に移動すると慣れない人は心の食あたりを起こすと思った方がいい。
インドに行くのはもっとゆっくりしたサイクルでじっくり腰を落ち着けて行ったら良かったのにと彼に話した。彼が行ったのはきついだけの通称ベナレス街道(デリーからヴァラナシを経てカルカッタまでの観光ルートのこと)だけだったのもその一因だろう。いずれにしてもいくら安いからといって意味のないただ欲張っただけの旅行は好きではない。もちろんそれぞれに自分なりのテーマがあれば別であるが、何か表面だけしか見てこれなかった彼をよけいなお世話だが不憫に思った。
メキシコシティに戻ると今回の旅の最後がいよいよ近づいてきたのを実感した。
メキシコシティは巨大な都市だ。私は最後に、カトリック三大奇跡の寺グァダルーペ寺院、国立人類学博物館、ティオティワカンの大ピラミッドを訪れた。どれも良かったのだが、それよりもメキシコシティでは孤独感ばかりを感じた。今回の旅行で初めて感じた孤独感だった。
最後の晩餐で日本食レストランへ行きビールをあおると今回の旅行を一人ねぎらい、いつしか今まで訪れた場所を回想した。
私は無性にグァテマラを懐かしく感じた。あの人なつっこくてそれでいて恥ずかしがり屋のインディヘナ達の顔が忘れられなかった。私は今回行けなかったトードスサントス(グァテマラの山奥の町)へいつの日にか行くぞと心に誓った。メキシコシティで偶然出会った日本人女性が嬉々としてこのトードスサントスの思い出を語ってくれたのが脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。行きたくなるきっかけなんてこんなものでいい。
グァナファト近郊の村へ行った時のこと、村のすばらしい教会を見た後かつての銀鉱跡を探していると一人の少女が話しかけてきた。そしてこっちだという手招きをして私と一緒に行こうとするそぶりを見せた。そのスペイン語が訛っていたのか私の理解力がなかったのか分からないが(おそらく後者に違いない)、5ペソという言葉とグィア(ガイド)という言葉が私の耳に響いた。私はとっさにまた案内の押し売りかとうんざりしながら『ノー』とその少女に浴びせかけてしまった。民家の中から母親らしい女性が出てきてその少女にこっちに来なさいと手招きしていた。少女はその母親になにやら意見していた。結局彼女は半分べそをかきながらその母親らしき女性の方へ行ってしまった。
彼女が一緒に行こうとした方向に10分ほど歩いていくと果たしてそこにかつての銀鉱跡があった。入口に入場料5ペソと書いてある。そしてここを見て回るためにガイドが同行し、銀鉱の下まで案内すると入り口で説明を受けた。
これを聞いた瞬間、すべては氷解した。私は何ということをしてしまったのかと悔やんだ。あの少女は5ペソが欲しくて銀鉱の入り口まで私を案内しようとしたんじゃない。銀鉱跡のシステムを親切に教えてくれたのだった。そして道の分からぬ私をそこまでわざわざ連れていってあげようとしたのだ。彼女の涙は私にとって悔やむに悔やみきれない後悔を置きみやげとして残してしまったような気がした。
帰りにその少女にお礼が言いたくてその家に行ってみたがそこにはもう誰もいなかった。私にはグァナファトの町に帰る道がこの時だけは何百キロの道のりを歩んでいるように感じられた。
百人旅人がいれば百通りの旅があるようにたとえ同じところに行こうとも感じ方はその人数分だけの感じ方があると思う。そう考えると旅とはきわめて個人的なものだ。だから私は旅とは自分と出会うためのものだと信じている。100カ国まわったとか、人が行けないところに行って来たと自慢げに話すのもいいであろうが、基本的にはどこに行っても同じ事だと思っている。それが香港であろうが、グァムであろうが、チベットの山中であろうが、あるいはどこにも行かなくたってそれを感じるその人自身の感性の問題だ。ほんのちょっとした散歩の途中に何かの驚くべき発見があるかもしれないし、ある人の100メートルが他の人にとっては地球的単位、宇宙的単位の距離に感じられる瞬間だってあるだろう。
メキシコシティからの帰りの飛行機で20歳ぐらいのメキシコ人の青年と隣の席になった。最初彼から話しかけてきたのがきっかけでダラスに到着するまで話し続けることになった。彼は意味不明な英語とスペイン語、私は訳の分からぬスペイン語と英語でほとんどコミュニケーションの手段が絶たれたようなものだったが、こんな時にディスカウントショップで購入した5カ国語電子辞書が大活躍した。はたから見たら妙な会話風景だったかもしれないが、その話の内容は日本とメキシコの昼飯の値段から旅について、果ては宗教の話までいろいろなジャンルに渡った。
彼は今回ニューヨークへ友人と会いに行く途中で飛行機に乗るのは生まれて初めてだという。離陸の際彼は顔面蒼白になり冷や汗をたっぷりかいていた。顔に『恐怖』と言う文字が浮かび上がっていた。離陸後、地面がどんどん離れていく光景が本当に信じられないとでも言いたげな表情をこちらに投げかけてきた。
私は自分が初めて飛行機に乗ったときの事を思い出した。あの時は確かパキスタン航空で、乗っただけでも少し不安になるような航空会社だったが、これから自分の知らない世界に向かう期待感と不安感、そして初めて乗る飛行機への恐怖感が複雑に入り組んで今の彼とおそらく同じ心境だったのが脳裏に浮かんで何だかおかしかった。
ダラスが近づいてから彼は不意に聞いてきた。
アメリカに入国するときに花束を持っているんだけど大丈夫だろうかという内容だった。
私は花束?と思ったが一応アメリカは生ものだとか植物、動物などにはとてもうるさくて持ち込めないかもしれないよとアドバイスした。でも何で花束なの?と聞いたらニューヨークで会う友達に渡すんだとある思いを込めながら彼は答えた。
それで私はすべてを理解した。難しいかもしれないけれど何とか頑張りなと彼にエールを送った。彼にとってメキシコシティからニューヨークへの旅は世界を100カ国まわろうが、地球を一周しようがそんなものと比べられたくないぐらい意味のある、自分との出会いの旅だったのだろう。
飛行機は予定通りにダラス空港に到着した。それは同時に彼との別れの時を意味していた。私はトランジットルームに彼はイミグレーションへ向かった。
彼は私に向かい、あなたに会えて本当に良かったですと言うと同時に右手を差し出してきた。私は、私こそあなたに会えて旅の終わりにとてもいい思い出が出来ました、ありがとうと答えた。
イミグレーションに向かう彼の背中を見ながら住所も電話番号もお互い聞かなかったのでおそらくもう二度と会うことはないであろうメキシコの友人にとにかくご幸運を、と心の中でつぶやいていた。
東京行きの飛行機の中で、メキシコかあ、また行くのも悪くないな、と機内食を詰め込みながら考えている自分に気がついた。
(最後まで読んでいただいた方に本当に感謝いたします。ありがとうございました。)