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キリストに抱かれた美しきサンバの町
リオデジャネイロ……1月の河。この町の名前を聞いたとき、私たちは一種の憧れとロマンを伴ってその姿を思い浮かべる。キリストに抱かれた美しいサンバの町を。
リオに強く心をひかれるのは、この町が今でも未知なるものへの好奇心を刺激してくれる、異国としての魅力を失っていないからだ。考えてみれば、ヨーロッパもアメリカも、主だった町は外国とは思えないほど身近なものになりすぎてしまった。

眺めのいいカフェに美味しいレストラン、人気ブランドの工場がどこにあるかまで、日本と同じ感覚でわかってしまうのでは、異国を旅するおもしろさに欠ける。


炸裂するドラムのリズム、眩しいばかりの豪華な衣装。飲み込まれそうな熱気。洪水のように押し寄せる音楽に酔い、人の波に酔い、踊り続ける興奮の4日間。あの陶酔 の中に1度でも身を置いた者はリオを決して忘れない。サンバのリズムを聴いただけで心が躍りだし、リオへの郷愁を募らせる。

とはいえ、カーニバルが終わり、化粧を落として素顔に戻った日常のリオも、それはそれで魅力的だ。

コパカバーナかイパネマの海岸通りに宿をとれば、波の音で目覚める気持ちのいい朝を迎えることが出来る。休日ともなれば、ビーチは朝早くから沢山の人たちで賑わう。カラフルなパラソルの花が咲き、フィーヨ・デンタル(デンタル・フロス)と呼ばれる胆な水着を身にまとったカリオカ(リオっ子)たちが、惜しげもなく美しい肢体を太陽の下にさらけ出す。ブラジル美人の条件はヒップラインの美しさだという話を聞いたことがあるが、そのはつらつとした健康美と太陽が宿っているように明るい笑顔は、よこしまな考えが入り込む一分のスキも与えない。

そんなカリオカたちに混じってゴロンとビーチに寝そべっていると、入れ替わり立ち替わりさまざまな物売りがやってくる。冷たいマテ茶やレモネードが入ったドラムを両脇に抱えてやってくる者、ボードにアクセサリーをびっしりつけてやってくる者、みんな炎天下の中を身ひとつで商売に精を出す。なかでも、山ほど帽子を積み上げた大きなパラソルをかかげてやってくる帽子売りは、リオのビーチの名物にもなっている。

リオは初めてという人なら、ビーチに出るよりまず最初にキリストの目線で高台から眺めるといい。そうすれば、この町の全体像がわかる。標高710メートルのコルコバードの丘までは、コスメ・べーリョ通りにある駅から真っ赤な登山電車に乗り、約20分。電車は駅を出発すると、ゴトゴトとのどかな音をたてて、切り立った岩山に生い茂る木々の中を力強く登っていく。

半分ほど登ったところで、突然視界が開けるが、これはあくまで予告編。「オオーッ」と乗客が身を乗り出すと、ゆっくり眺める暇もなく、すぐに景色は閉ざされてしまう。

電車を下りてから展望台までは、216段という次なる試練が待ち受けている。美しい風景を見るためには少しぐらい自分の足で歩いて苦労しなさいという、キリストの声が聞こえてくるようだ。日頃、運動不足の人は少しこたえるが、そんな疲れも、展望台からの眺めを前にすれば一度に吹き飛んでしまう。

海岸線のすぐ近くまで迫る小高い山々の連なり、その間を縫うようにして広がる高層ビルや住宅街。紺碧の海を縁取る白い砂浜….。

360度のパノラマで広がる美しい自然の景観をひとつひとつゆっくり味わっていると、時間が経つのも忘れてしまいそうだ。

リオの一年は、カーニバルに始まりカーニバルに終わるといっても過言ではない。それを痛感させられたのは、案内してくれたガイド氏に、
「カーニバルの準備はいつ頃から始めるんですか?」とたずねたときだった。
彼はすかさずこう答えた。
「終わった日の翌日からですよ」
カーニバルは1年に1度の祭り、年間行事の一つとしてとらえがちだが、このときもっと深い意味を持つことに気がついた。リオに住む人々にとって、とりわけファベイラ(貧民街)に住む人々にとって、カーニバルは人生そのものなのだ。

リオにはこのコルコバードの丘のほかにもう一つ、見晴らしのいい展望台がある。フラメンゴとコパカバーナの海岸から海に突きだしたポンデアスーカル(砂糖パン)という岩山だ。こちらは2つのロープウエイを乗り継いで頂上まで登る。キリスト像とはちょうど反対になる海側から町を眺めることができるので、両方の景色を見比べてみたい。

リオを離れる最後の日、カーニバルの会場になるパレード大通りを訪れてみた。期間中は10万人もの人で埋め尽くされるスタンドも、普段は校舎として使われ、校庭では子供達が元気に走り回っている。

もうすぐ、今年も、カーニバルの季節がやってくる。そう思うと、どこからかサンバのリズムが聞こえてくるような気がした。