太平洋に面して南北2500㌔に及ぶペルーの海岸線は、そのほとんどが砂漠化しています。この砂漠に、アンデス山脈に源を発する河川33本が流れ込んでいます。昔、海岸地帯に芽生えた古代文明を基に、歴史とともに発展してきた都市の大半がこの33本の川沿いにあり、首都のリマもリマック川の流域にできた都市のひとつです。
 
 南極から北上してくる冷たいフンボルト海流と、太平洋からアンデス山脈に向かって吹く風のため、ペルーからチリにかけての海岸は沙漠化しています。そして南米大陸を南北7000㌔にわたって走るアンデス山脈がペルー付近で東側の白アンデスと西側の黒アンデスの二つ分かれています。この二つ山脈の間が「シエラ」と呼ばれる標高3000から4000㍍の高原地帯で南のボリビアに向かって広がっています。その中心がクスコであり、ティティカカ湖です。
 
 現在ペルーの人口の約半分が原住民のインディオ(インディヘナ)で、その大半がこのシエラといわれる地帯に住み昔と変わらぬ生活を送っています。
 
 アンデス山脈の東斜面は西の海岸線とはまったく対照的で、蒸し暑く雨の多いセルバと呼ばれる熱帯降雨林地帯です。ここにはたくさんの川が流れており、その全てがブラジルのアマゾン川に合流するのです。クスコからマチュピチュへの旅の途中に出会うウルバンバ川もアマゾン源流の一つです。
 
 ペルーという国はこのように大きく分けて海岸地帯の「コスタ」中央部高原地帯の「シエラ」熱帯降雨林地帯の「セルバ」と一つの国で気候も風土もまったく異なった三つの地域から成っているのです。
 
 このような国に1万年から6000年前頃になると人が住み始めます。アジアからやって来たモンゴリアンです。初期の頃は狩猟採集民族として動物を捕まえたり、木の実を採ったり、転々と洞窟を渡り歩いてたようです。5000年前頃になると少しずつ定住するようになります。人間が住む最低の条件として食料に必要な農耕が始まり、穀物(キヌア)やカボチャの栽培、さらに海産物資源も利用されるようになります。また「クイ」という野生のモルモットもタンパク源として食されたり、人間としての生活が始まりました。そして初期神殿と考えられる公共建物も作られますが、統一した文化というものはなかったようです。
 
 やがてトウモロコシやジャガイモなどの栽培も始まり、織物も織られ、リャマやアルパカなどラクダ科の動物が家畜化されてきます。3500年前になると土器の製作も始まりました。こうした農耕社会の基礎として、3000年ほど前にはチャビンと呼ばれる優れた文化が現れます。その中心がリマの北の中央高原にあるチャビン・デ・ワンタルです。ここに石造りの5階建て大神殿が造られ、いまでも遺跡として残っています。このすぐれたチャビン文化は、やがて各地に広がってゆきます。
 
 紀元前500年頃になると、チャビン文化の影響をた多分に受けたパラカス(リマの南260㌔の海岸地帯)文化が誕生します。ここでは非常に美しい刺繍の織物や彩色土器が作られます。しかしこのパラカス文化も300年くらいで衰退します。紀元前後になると海岸線を中心としてたくさんの文化が生まれてきます。代表的なものとして、北ではモチーカ、中部のリマ、南ではナスカ文化です。リマから北に約550㌔、現在のトルヒーヨを流れるモチェ川流域のモチーカで造られた土器は、もっとも写実性に富んだ表現をしていることで有名です。一方、ナスカには空からでなければ見ることのできない巨大な謎の地上絵があります。
 
 ペルーの南に位置するボリビアは、人口の約7割がアイマラ族というインディオ(インディヘナ)です。彼らはティティカカ湖近くのティワナクに石造の大神殿を造りました。現在のティワナク遺跡です。このティワナク文化は5世紀から8世紀にかけて、ペルーの海岸地帯に大きな影響力を与え、ペルー中央部のアヤクーチョ近くにワリ、リマの南にはパチャカマという文化を生み、再び統一時代が訪れます。
 
 紀元1000年頃から再び群雄割拠の時代となり、チムー、チャンカイ、チンチャなどの文化が現れます。その中でチムー文化はペルー北海岸にチャンチャンという大きな都を造ります。この文化が250年続くと、紀元1250年、いよいよインカ帝国の出現です。インカ文化はいままでのいくつかの文化が土台となってできたもので、インカ族という行政、軍事能力にたけた部族であります。やがて彼らは自分たちの勢力範囲を拡大し、200年後の1450年頃には、北は北緯1度、コロンビアのリオ・アンガスマヨ川、南は南緯35度、チリのサンティアゴの南にあるリオ・マウレまで、直線距離にして5300㌔、面積200万平方㌔をインカ帝国の勢力範囲にします。この広さはなんと日本の5.5倍です。インカという名前はスペイン人が後からつけた名前で、それまではタワンテン・スーユ(4つの州)といって正式に国王を持った国家であり、全国を東西南北に分割統治していました。
 
 インカ帝国は海岸線の山の中に立派な道路を南北に造り、それを東西にいくつもの道で結び、そのいずれの道もクスコに集中するよう設計されていました。インカ王道と呼ばれ、総延長はなんと4万㌔もあったようです。そして15から20㌔ごとにタンボ(宿場)を設け、チャスキという飛脚を配置しました。彼らは全国の情報をクスコに集め、またクスコからの命令を全国に伝えるという役割を果たしており、この頃から通信制度はかなり発達していたようです。
 
 こうしてインカ皇帝を中心に高度な文化をもつインカ帝国を築いたのです。この広大なインカ帝国も、1532年、北の海岸からわずか168人の軍隊とともにやって来たフランシスコ・ピサロというスペイン人によって滅ぼされます。ピサロは金銀財宝を奪うのが目的だっようです。この時のインカ皇帝、第13代アタワルパはアンデス山中のカハマルカに3万から5万の軍隊を集めていました。ピサロはアタワルパに会い、だまして捕らえ、幽閉して身代金がわりに金銀財宝を奪うと、もう一度だました後1533年アタワルパを処刑するのです。よって事実上インカ帝国の崩壊が始まりました。
 
 ピサロは、皇帝がいればインカ帝国は統治できると考え、14代、15代と傀儡政権をつくって、次第にこの国をスペインの植民地にしていったのです。それから約300年後の1827年7月28日、独立国家としてペルー共和国が誕生します。
 
 なお、ピサロはアンデス山中に入ってきて2年後の 1534年、リマック川の流域にリマ市を建設します。当時ブラジルを除いて中南米は皆スペイン領であり、リマはその中心となっていました。


以上は、リマの天野博物館で見学者への説明をもとに作成しました。無断複写・転載を禁ず。1985 わたなべただし

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